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佐藤 弘夫、神・仏・王権の中世、法蔵館、1998 (Sato Hirō, Gods, Buddhas, and Imperial Rule in the Medieval Period, Hōzōkan, 1998)

 

佐藤 弘夫、神・仏・王権の中世、法蔵館、1998 (Sato Hirō, Gods, Buddhas, and Imperial Rule in the Medieval Period, Hōzōkan, 1998)

―中世・古代の主な寺社、つまり延暦寺、御常時、興福寺、岩清水八幡宮、は領地や荘園の年貢に頼ったことによって、中世時代に入って庄園からの収入が減少しはじまってから、経済的に存続するために直接な経営をせざるを得なかった。自らの庄園の支配力を強めるように各寺社は神仏の近身の存在を強調し、未進が行った場合、天罰や厳罰が降りると農民に伝え、秩序として設置した。佐藤によると…「権門としての寺社および天皇家・摂関家は、人的交流などを通じて相互の密接な結びつきを保っており、王法仏法相依論などによって、それらの諸権門があいよって、構築された荘園制度支配秩序そのものが、仏神の威光によって鎮護さるべき対象と観念されていたのである」。(94)

これに対して、当地の住民は素直にその論理を受け取れたわけがなかった。対抗の論理と形成として二つの方向があった。「一つは庄園に君臨する仏神の権威を承認しつつ、その威光を逆に利用し恣意(しい, selfishly)的な収奪(しゅうだつ)を防止し、さらには年貢・公事負担の軽減を勝ち取ろうとしていた」。(95) 東寺や他の寺社(または公家)が年貢・公事の負担を大仏に対する宗教的な奉仕(ほうし)と称えたことに対して、それを認めながら農民がしばしば自分から積極的に仏神との関係を結び、これで自分の権益を拡大していた。例えば、「荘家の一揆が各地に形成されるとき、農民たちは荘園支配の宗教的象徴であった荘鎮守の前で、一味起請文に連署して神水を飲みかわし、一致団結と不退の決意を確認しあったが、そこにも同様に、既存の仏神の積極的な利用による自己の行動の正当化を見出すことが可能である」。(96)

専修念仏の影響―「専修念仏に帰入することにより、農民たちは仏神に対し崇敬の念を失ったのみならず、逆に敵対行為にさえ出るようになった。それは旧仏教者にとっては、それまでなされてきた仏神への奉仕の拒否。と同時に、仏神を恐れない農民門徒の行動は、その権威をイデオロギー的支柱とする荘園制支配そのものに対する、真向からの反逆とみえたのである。十三世紀初頭から、旧仏教教団と専修念仏者の間に繰り広げられる激しい相克は、思想的次元での対立になって、専修念仏に帰依した農民たちの間に、阿弥陀仏の権威を拠り(より)所として、他の諸仏諸神を誹謗する動きがみられた」。(103)

一向衆の影響―十五世紀後半に真宗の教線は各地の惣組織を単位として農民や土豪層に受け容(い)れられていた。そして、蓮如のたび重ねる制止にもかかわらず、真宗に帰した「土民」たちは、「あるいは仏像経巻を焼失し、神明和光を軽蔑」(金森日記抜-真宗全集、六九、九三頁)、「仏像経巻を破滅し、神社仏閣を顚倒(てんとう)」(仏光寺文書)。結局、荘園体制は一向一揆によって最後の「命脈」を失った」。(113)

「破仏がみられたとしても、多くの場合、無神論的立場からの仏神そのものの否定ではなく、専修念仏のごとき新たな信仰へと帰入することにより、それを精神的な拠り所として既存の仏神を誹謗するという形をとった」。(112)

© Greg Pampling. This page was modified in December 2011